日本のパチンコについて

パチンコに対するスタンスは人それぞれだと思いますが、日本文化に深く根強いているのが事実です。日本人としてパチンコの歴史を知っておくのは大事なこととも言えるでしょう。昔のパチンコは今と違い、手動のものでした。今のパチンコを見ると何もかも自動化されていますが、戦前のパチンコは補給も手動でした。今だから玉が切れたら玉を買う機会にお金を入れると玉が出てきますが、昔は台の列と列の間に入っている人が脚立で上から玉を補給していたのです。手打ちパチンコは今では滅多に見ませんが、オークションなどで検索してみると見つかるかもしれません。昔のパチンコはいたってシンプルなつくりになっており、今とは釘も違います。レバーを押して離すとバネの反動によって玉が飛び、レバーの強さによって玉の強弱を変えることが可能です。当時のパチンコにはチューリップがあり、一個チューリップの中に玉が入ると、また別のチューリップも開くだけのものでした。一個目と二個目の強さをうまく調節して二個同時にチューリップに入れてチューリップを開きっぱなしにしておくと玉が増えていくというものです。昔のものなので、当然高度な作りではないため、チューリップが壊れて開きっぱなしになることがあり、そうなると、玉を入れ続けることができ、さらに勝って玉が出っぱなし状態になることもありました。右手でバネを弾き、ハンドルの上にある穴があって、そこから左手で一個ずつ玉を足して、また弾くの繰り返しでした。

パチンコの歴史と日本のつながり

玉を転がして遊ぶゲームは古今東西南北、昔から存在していました。古代エジプトにはすでに石を転がすボーリングのような遊びがあったと言われています。また、古代ローマには大理石の玉で遊ぶおはじきのようなゲームもあったと言われています。国や地域によってやり方が多少異なりましたが、木の杭で障害物を作ったり、棒で玉を転がしたりし始めて、のちにゴルフやロッケーなどに進化していきました。このような遊びは屋外や卓上でも遊ばれるようになり、やがてビリヤードみたいなゲームにまで発展していきました。進化に進化を遂げ、1895年にウォールマシンがイギリスで誕生しました。ウォールマシンは瞬く間にヨーロッパで人気になり、ドイツやフランスでも製造されるようになったのです。ウォールマシンの多くは投入した小銭を玉の代わりに飛ばし、入賞すれば小銭が出てくるというものでした。玉を飛ばすタイプを始め、小銭ではなくタバコが当たるタイプのゲームもありました。こんなシンプルなゲームでもこれが一応ギャンブルでした。このマシーンの発祥地イギリスでは1960年頃に合法化しましたが、すぐに人気が衰えてしまいました。
このウォールマシンのブームは日本にもやってきました。1920年代から1940年代頃に日本に上陸したと言われています。日本へのルートは定かではありませんが、1923年に兵庫県も「宝塚新温泉パラダイス」の遊戯場にこのウォールマシンが登場しています。宝塚新温泉パラダイスは当時でいう日本最大級のレジャー施設です。温泉を始め、劇場や食堂、さらに遊園地に動物園も入った大規模なテーマパークでした。またこのウォールマシンから発想を得て「玉遊菓子自動販売機」というマシーンも登場します。1927年頃に「1銭パチンコ」と呼ばれるものができ、1銭の銅貨を投入すると玉が1発出てくるもでした。この玉で入賞すると2〜3銭が帰ってくるというものでした。現金が出てくるのは賭博法に反するため、すぐに禁止されました。そこで次に開発されたのは1銭銅貨と同じ大きさのメダルを使用したパチンコです。景品として現金を支払うと賭博法に引っ掛かるので、代わりにタバコやお菓子をあげていました。1930年に、名古屋で日本初のパチンコ店が営業許可を取得しました。開業した店主は平野はまという女性で、最初は自分の家の玄関先で開いて営業していました。パチンコの火付け役となった1店舗目は、次々と日本各地にブームを広め、全国で開業されるようになりました。しかし、あまりにも大ヒットしたため、2年後には大阪、3年目には福岡で禁止されてしまいます。また第二次世界大戦が始まる頃にはパチンコの製造販売も一切禁止になりました。

戦後の日本とパチンコ

戦後最初にパチンコ店が復活したのは福岡にある進駐軍の慰安所でした。米兵たちがスロットマシーンなどを要求したのですが、戦後の日本にそんなものはなく、代わりに入れられたのがパチンコです。 記録は残っていませんが、終戦と同時期に闇市でもパチンコの営業が行われてたと言われています。戦後に開業した「浄心遊技場」は戦前からパチンコ屋を運営していたため、戦後もスムーズに開業できました。開業したのは正村竹一で現在のパチンコの基礎である「正村ゲージ」を開発した人です。パチンコ業界ではパチンコの父と呼ばれているほどです。正村がパチンコの火付け役と言っても過言ではないでしょう。

正村ゲージ

戦前のパチンコ台は画面いっぱいに釘が等間隔で打たれていて、玉はその釘の間をポトポト落ちるという感じで流れ落ちるようなものでした。正村氏は、釘を独自の配列にすることによって変化を生み出しました。よって、ある場所では風車が回り、ある場所ではポトッポトッといった感じで落ちるようになっています。玉が変化のある動きをするような考案をした結果、天釘、命釘、ハカマなども生まれました。そしてこれが現在みるパチンコの基礎となっている正村ゲージと言います。正村ゲージの考案したパチンコは爆発的に売れ、彼のゲージの台を買っては真似して似たものを作った人も多かったそうです。正村の工夫はたくさんあった入賞口を大幅に減らして、その代わりに一回の入賞で出てくるあたりの玉の量を増やすことです。現在どこでも見るパチンコの原型はほとんどがこの正村ゲージに由来します。正村ゲージが導入してからおよそ数年間で、パチンコ店は全国で1万2000軒にも増えました。

暗黒期と復活

パチンコの人気が高まりすぎて社会問題になり、1954年には連発式のパチンコ台は全面禁止となりました。それにより、人気は劇的に落ちて廃業が相次ぐ事態が発生します。1956年時点での店舗数は7000軒を切るという落ち込み具合になり、パチンコ業界にとっては暗黒期と言ってもいいでしょう。しかし1959年に西陣というメーカーが製作した「ジンミット」という台の登場がパチンコを復活させます。ジンミットの特徴は盤面の中央に玉が通るブリッジがかかっていることです。このような仕掛けをセンター役物と言いますが、ここに玉が通り奥の穴に落ちれば入賞するというものでした。いたってシンプルな仕組みですがお客さん的にはヒットし、再び落ちていたパチンコの人気が復活します。1960年にはチューリップと呼ばれるパカパカ開く役物が登場し、パチンコの人気はさらに高まっていきます。

問題点

パチンコは復活を遂げたのすが、新たに問題も発生してきました。仲介人と言ってパチンコの景品をお客さんから安く買い取って、パチンコ店に高く売って利益を得るという人のことです。またヤクザも介入し始めるようになりました。パチンコ側もパチンコのイメージがヤクザがらみだと迷惑なので困ってしまい、警察とパチンコ業界の双方の利害が一致し始めます。そこでヤクザの締め出し方として出たのが、三店方式です。パチンコ店、交換所、景品問屋の3つの店がそれぞれ独立していて、特殊景品は価値を持っていること。そして交換所で買い取られた景品がパチンコ店に戻らないことが条件です。